人気ブログランキング | 話題のタグを見る

幸せの扉

幸せの扉_d0280748_12434100.jpg
貴様たちにとって幸せの定義とは何だろうか。家族の健康?家内安全?一攫千金?・・・幸せの定義はできそうなようでなかなかできない。それは、人間一人ひとりが思う幸せの度合いの差がそこに存在するからだ。
米コロンビア大学地球研究所は昨年7月に調査した世界の国民が感じている幸福度を発表した。その結果、上位を占めるのはデンマーク、ノルウェー、スイスなどで、我が国はトップ10にすら入らず43位に留まった。ある専門家はこの結果を招いた原因をこう分析する。東京オリンピックを7年後に開催するというイベントが控える裏側で、富裕層と貧困層における格差が表面化し、特に貧困層では失業や家庭崩壊。身体疾患が日常的に繰り返されていることを列挙。更に精神疾患の部類に至っては国民病とまで謳われるうつ病が代表格を占め、続いて会社・学校で発生が著しいイジメ・パワハラなどの存在が個々の国民が感じ取る幸福度の割合を低下させているとした。
この調査を元に自分の生活環境は幸せかどうか置き換えてみるとどうだろう。
平日は決まった時間に起き、すし詰め状態の電車で会社へ向う。上司から理不尽な命令に逆らうこともできず、社交辞令の名の元で呑みたくもない酒を酌み交わす。自宅に帰ってみれば家族からの愚痴を背中に浴びながら床に就く。
この状況をどう捉えるかは個人の判断に任せるとして、まず自分が思い描く理想がこの状況かというとそれはありえない話だ。そう。幸せの判断基準は自分が思い描く理想のラインにどれ程近づけているかが何よりものキーポイントと言える。
幸せの扉_d0280748_1192965.jpg
ここでは便宜上、上記の例に挙げた生活を送る人物をAとし、Aの思い描く理想の生活を送っている架空人物をBと仮定しよう。この場合、Aは自分の中でBという架空の人物を生み出すことで、その架空人物Bを目標としながら生活して行くことになる。そこで、A自身の生活環境がBには程遠い劣悪な環境と判断した時、そこで初めて自分は不幸であるという感情が生まれるのだ。現代社会の情勢からは長引く不況の煽りを受けて、自分の理想100%を満たす生活を整えている人間などまず存在しない。社会や家庭、その双方から織成す人間関係などに何かしら不満を持ちながら日々の生活を送っていることは明白だ。それでも人間はできる限り身の回りの不満を少しでも排除しようとあの手この手を使って行動に出る。昨年初冬から明るみに出た前・東京都知事の政治資金提供問題を巡る例に然り、その行動は時に法の一線を越えて社会から制裁を受けることもあるが、それでも幸福感を追い求める射幸心という感情を日本人は強く胸に秘めているのかもしれない。

我々鉄道愛好家の中における幸せの基準は何だろうか。ふとしたことから私は考えるようになったのだが、未だに明確な結論に至っていない。鉄道を撮影する部隊において彼らが感じる幸福感情は何と言っても自分が思い描いた構図で撮影し、成功作を生み出すことだろう。『バリ順』『激ブイ』『パーゴでドン』等、この世界でのみ通用する独自の専門用語が後を絶たない程、鉄道愛好家の中でも撮影部隊側は1枚のカットに精魂を込めていると言ってもいいだろう。
ひとつのジャンルに対して集中的な興味を抱き、その世界に耽溺するという行動は一種の特性とも言える。例えば、鉄道が好きで興味を抱いている場合、その人物独自の特性が高じていれば万が一、踏切で立ち往生した乗用車を見かけた場合でも冷静な判断で往来する列車に対して停止措置を取り人命を助けることだってできる。これは自分が持つ趣味を好意的視点から捉えた一例に過ぎないが、世間では鉄道趣味全般に対する風当たりは依然として厳しい。日本のどこかで凡例に挙げるような功績が話題に上がったとしても多くの鉄道愛好家に対する偏見は払拭することができないのが実情だ。

近年ではインターネット技術の進歩により個人のPC端末を経て画像や動画を公開する行為は容易になった。こうして私も自分の思想を文章化して発表している所だが、ここ数年間では技術の進歩に比例し、その技術を利用して反社会勢力を伴う鉄道愛好家が行った数々の一部始終を撮影・投稿して動画共有サイトや個人のブログといった媒体にアップロードする行為が散見されるようになった。こうした行為も当初は反社会的行為を行い鉄道趣味のモラル低下を招いている行動への警鐘として利用されてきた過程があるが、最近では反社会的行為を行う鉄道愛好家の様子を撮影し、アップロードすることで第三者の興味を引くことだけが主目的となっているため、その動画や記事を閲覧した第三者が益々鉄道愛好家へのイメージを下げる結果を招いている。

私は敢えて言わせて貰うが、確かに日本中全ての鉄道愛好家が反社会的行為に手を染めているとは言い切れないし、自らもそうではないことを願っている。しかし、反社会行為を咎めるべく動画共有サイト等に投稿された動画・画像の数々は一般人に更なる偏見の苗を植え付け、負のスパイラルを生む温床になっていることに逸早く気付くべきではないかと私は考える。
動画共有サイトだけでなく、鉄道愛好家個人が設営しているブログに至っても同様のことが言える。この種の趣味ジャンルを愉しむ者がブログ記事を書く場合、記事の内容を鉄道だけに絞って執筆するため話題の偏りが顕著で、同じ鉄道趣味を愉しむ仲間からすれば内容を理解できたとしても、そうでない人物からすれば鉄道の写真を撮影・掲載して何が楽しいのか理解に苦しむことだろう。更に、数多の鉄道愛好家のブログを閲覧していると共通して目に留まる鉄道以外の内容が第三者への誹謗中傷や愚痴だ。実際の撮影地で遭遇した撮影者に対する一方的な不平不満。更には個人情報を露出した上でバッシングに等しい文章を平気で記事に羅列させる。人権に触れることも問わず名誉を毀損したり個人情報を探し当てては酒の肴として記事にする。こうした兆候が見られる彼らは自分達の行っている行動は正義であると勘違いしており、その精神こそが歪曲しているに他ならない。
幸せの扉_d0280748_1195770.jpg
次に目立つのは学校や会社に関係する愚痴。ブログは公開されるとはいえ個人の日記という特質がある以上、多少の愚痴は容認されるとしても内容には限度というものがある。ブログ設営者自身が常日頃の生活渦中で生まれた愚痴を閲覧者側が聞いたとしても何の解決の糸口は見つからない。そうと分かっていても記事にすることで第三者の興味を引こうと試みる行為は鉄道愛好家に限らずブログを執筆する者であれば一度や二度の経験はあるかと思われる。当然、そうした内容が書かれた記事を見て不快に感じるならば本末転倒閲覧しなければ良いだけの話として割り切ることができるが、ブログに書かれる日記はインターネット上に公開している以上、第三者が閲覧されることを前提として書くことはインターネットを利用する上でのエチケットというものだ。無論、エチケットは法律のような拘束力はないにしても表現の自由を主張し、ブログ設営者の権威を笠に着たような反論するのが鉄道愛好家の特徴だ。確かに、発言内容について話題に上っている当事者以外の第三者が指摘する資格はない。それでも、常識ある世間多くの一般人はこうしたエチケットと呼ばれる社会を生きていく上で守るべき規範を心得ているわけで、こうした一般常識を持つ者からすると鉄道愛好家がエチケットは法律下で制限されているわけではないという『表現の自由』に託けて誹謗中傷記事を平気で執筆することに敬遠する傾向がある。このことを鉄道愛好家はブログを執筆する過程で弁えなければならない。
反社会的行為を行い鉄道趣味に悪いイメージを植えつける当事者を見つけた場合、貴様達ならばどう対処しているだろうか。その当事者を撮影し自分のブログに画像を添付し公開することで正義の使者を気取っていないだろうか。肖像権や個人情報保護法を逸していないだろうか。鉄道趣味の名誉挽回を図る前に誰しもが自分の行動を振り返って欲しい。決して同じ穴の狢と思われないよう気を付けていただきたい。それが鉄道趣味の偏見を払拭する何よりの一歩なのだから。

ところで、貴様達はエチケット・社会秩序(Manner)といった世間の決まり事を何処で身に習得しただろうか。それは、どんな博学多識な百科辞典を探してもその情報を手にすることはできない。そう、御存知の通りエチケットはその家庭や教育現場といったありとあらゆる生活環境で自然と身に付いていく知識なのである。例えば、朝起きて家族や学校の先生に「おはようございます」と挨拶する行動。これも社会を生きる上で欠かせないエチケットに含まれる項目だ。挨拶を意図的に省略したり、挨拶はしていても声が小さい子供がいると周囲の先輩方が忠告し是正を求める。こうして自宅の門を開け、社会へ船出をして行く者は最低限必要なエチケットという知識を得ながら今日まで暮らしてきた。
幸せの扉_d0280748_1202793.jpg
鉄道趣味界においても挨拶から始る交流は数知れず。
「おはようございます。今日は寒いですね」「こんにちは、今日は暑いですね」
私は各撮影地に到着し、まず場所を取るときは必ずこうして近隣の撮影者に声を掛ける。大概の方達は返してくれ、そうでなくても会釈など身振りでリアクションしてくれるだけでも心は温まる。しかし、中には単純に他人と関わることを拒否しているのか社会常識を知らないのか無視する者も多い。そうした形態は取り分けて未成年者に多く見受けられる傾向がある。前者の場合は個人の人生観念や思想による所なので本項では取り扱わないとしても後者に至っては明らかな社会常識が欠如しているケースだ。彼らも私と同じように学校生活を送り、社会常識となるエチケットを習得しているはずなのだが実践で生かされていない。
鉄道趣味界でもこうした社会の土台とも言うべきエチケットを身に付けないまま世に進出している事情を窺い知ることができよう。その裏側には当事者の育った家庭環境があると私は推測する。近年では法律の厳罰化により社会福祉の場でもネグレクトや身体的な虐待といった事案に対しては非常に過敏になっている。子供の身体に痣や傷はないか、生活範囲の中で異変はないかなどを徹底的に調査するようになった。そのためか子供を育てる側に立つ両親の多くは自分の生活圏に漣を立てないよう事なかれ主義という思想を持つようになった。当然、そうなると親は自分の不注意で法に問われないかを何よりも優先して考えるため、自分の子供でありながら社会の規範を逸脱した行為を取っていたとしてもそれを親の権限で制止させることができない。その“事なかれ主義”の思想を持つ親に育てられた子供は当然、社会のエチケットなど身に付くところではなく、その子供達がこうしている今も社会に進出し続けているのが現状だ。それは言い換えると検品を受けないまま社会に流通している薬品に例えられるようなもの。
マスコミ各社が鉄道愛好家に限ったような反社会的行為について取り上げることはここ最近目立っている所だが、若年者の反社会的行為に限っては言えることがある。それは、現代社会のうつし絵が鉄道愛好家が見せるこのザマであるということに他ならない。

大阪府吹田市。1986年秋に国鉄職員だった父とテレクラを通じて知合った母の間に私は生まれた。
今ほど家庭は決して裕福で恵まれた家庭ではなかったが、私はこの町で育ち紆余曲折の経歴を持ちながら現在に至る。
小学校卒業まで吹田の街で育った私だが、ごくありふれた家庭環境の中でエチケットを教わった相手。それはやはり両親だったり周囲の人間達だった。学校だけでなく、周囲の大人たちが人生の先生のような環境だったのかもしれない。自宅から徒歩数分の場所に学年では1年先輩にあたる女の子が住んでいた。名前を「すみれちゃん(仮名)」と言った。彼女の成績は常に上位で、学力だけでなく、地域の集団登校では班長を進んで務めるほど積極性に富んだ人柄だった。当然、周囲からの信頼も厚かった。
ある日、私は駅前広場に屯する野良猫を同学年の悪友達といじめていたことがあった。松ぼっくりを投げて当てると「ニャゴーン!」と歯を見せながらキッと歌舞伎役者のような睨みを効かせて逃げていく姿を見て笑っていたところ、そこに彼女が現れ私を始めとする周囲の悪友達を叱った。その後、柔和な顔で諭されたことを今でも断片的に覚えている。
幸せの扉_d0280748_1204343.jpg
これこそが『動物をいじめてはいけない』という社会常識をエチケットとして会得した瞬間であった。公式な法律ではどんな法が制定されていて違反するにあたりどれ程の罰金刑があるかといった記載が六法全書に事細く記されていることだろう。しかし、当時の私にとって法律はそんなものではなく、周囲の先輩に当たる人から教わるこうしたエチケット一つひとつが法律であった。「あいさつは元気に大きな声で」「人を傷つけるようなことをしてはいけない」「動物をいじめてはいけない」・・・こうした知識を積み重ねていく上で社会に通用する人間像が出来上がっていくのである。私は決して今でも真っ当な人間と自負できる程ではないが、過去に経験した数々があり現在を生きているからこそ胸を張ってここに記事を書きこめるのである。この中にもしも若年者の鉄道愛好家がいるのだとすれば私の言葉を老婆心ながら捉え、人生の教科書として捉えてくれると幸いである。

貴様達に取って幸せの定義は何だろうか。その小さな幸せを見つけたとき、その過程で別の誰かを傷付けていないだろうか。間違った正義を気取り周囲を辟易させていないだろうか。
そう思って立ち止まった時、貴様は本当の意味で幸せの扉を開くことができると私は信じている。
2014年、今年も幸多き一年でありますよう、心から御祈りを申し上げると共に、末筆ながら新年の挨拶に代えさせてもらう。
=新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。=

<イメージ画像出演者>
石原さとみ、笠原秀幸
柄本明、荒川槙
岡本杏理、岡山智樹
# by detthiu | 2014-01-02 01:25

急行少女が教えてくれた鉄道研究部の存在意義

急行少女が教えてくれた鉄道研究部の存在意義_d0280748_18304445.jpg

数ある学校の部活の中で鉄道研究部の存在はある意味特殊だ。それはスポーツや武道といった人間が生まれつき持つ身体的能力を高めることが目的ではなく、自分が興味を持っている趣味の世界があって成り立つカルチャー系の部活だからだ。近年では、学校教育改革により詰め込み教育を排他。一気にゆとり教育が提唱されて以降、授業とは別の課外活動でも規制緩和が行われ、様々なジャンルの部活が各教育現場にて散見される。
鉄道だけでなくアニメ研究部やゲーム研究部といった、明らか所属する部員の嗜好ありきりの部活が場所によっては従来の縦社会形スポーツ系部活よりもシェアを占め始めている。
話の照点を再び鉄道研究部に戻し話を進めていこう。鉄道研究部は数多のカルチャー系部活の中でも群を抜いてメジャーの座を確立したと言える。世間ではジョイフルトレインなど貸切り列車を設定し部活の合宿を行う団体も多く、その列車を撮影するために我々撮影者側も良いネタとして心をくすぐらされる。その他、実際に経営が苦しい鉄道会社に対して部員独自の経営改善意見を提出・発表し会社に貢献するという取り組みも見られる。このように世間の広い視点から見ると学校に存在する鉄道研究部の存在は重宝されるケースもあるようだが、実際には鉄道研究部を初めとするカルチャー系の部活の存在には意義を唱える者も少なくない。その理由として活動内容が明確ではないにも関らず学校の運営資金から部費を捻出しなければならないこと。また、スポーツ系とは異なりサンプリングした生徒のうち部に所属するに相応しい部員が一握の砂程度でしかなく、また、その生徒の多くがクラスの催事や他のスポーツ系部活などにおける集団生活を苦手とし、運動神経に自信が無い者であることなどが挙げられる。
特に後者に至っては部の金銭的な経営面だけでなく部外の生徒や教師にもマイナスなイメージを植え付ける原因にもなっていて、実際に私が中学生当時に一時所属していた鉄道研究部もこの典型例であった。授業にすら出席せずに好き勝手な学生生活を謳歌する者。他者と協調することができず怒りっぽく自分の感情を制御できない者。他人の話を聞かず自分の興味がある話しかせず周囲を辟易させる者。著しく知的障害を持ち、授業中に廊下を「ドロボー!ドロボー!」と叫びながら疾走していく者など世間で言う“普通”に値する生徒が少なく、周囲からの風当たりも相当強いものがあった。
そんなカルチャー系の部活の長所は誰でも気軽に部の仲間入りを果たせることである。鉄道研究部以外にゲーム部を例にとっても一定のゲームに興味がある生徒であれば無条件に参加することができる。スポーツ系の部活であれば一定の水準を満たす体力がなければ先輩たちの足手纏いになってしまうが、自分の力量を気にすることなく参加できる点はカルチャー系部活特有の長所と言えるだろう。
急行少女が教えてくれた鉄道研究部の存在意義_d0280748_18273232.jpg
しかし、集団生活を身につけ、生徒を社会へ進出させる前の学習を主本とする学校の理念に逆らっているのもカルチャー系部活の存在だ。まして、各クラスで協調性が無いばかりか問題を起こす生徒の受け口として存在する部活ならば学校教育全てに反旗を翻したと見做され、顧問や部長は学校全体から非難されるケースも少なくない。生徒はやがて学校を卒業し社会への船出を果たしたとき、スポーツ系の部活に所属し県大会などで功績を挙げたことは自己アピールとして活用できるが、鉄道研究部に所属しJR線全線を完全乗車したことを話しても単なる自己満足の世界のため第三者に思いは伝わらない。むしろ、他者と信頼関係を築くことができずに自己満足の世界に逃げたという否定的な見方をされてしまう。カルチャー系部活の短所は全てここにあると言える。

これから話す一例は私が実際に鉄道研究部所属時に経験したものである。
中学2年生の春、1年先輩の3年生の女子が鉄道研究部に入部届けを出してきた。彼女は当時現役だった165系のファンで、学校に程近い路線にその形式が入線する光景を見ることができた日のことをとても嬉しそうに話していた。時既にこの形式は従来の急行運用を退き、専ら団体臨時列車など波動運用に用いられていたが、学校の行き帰りに見かけるステンレス車両に囲まれながら停車している湘南色の車体は一際目立っていた。
「165系って言うんですよね?私、この前駅でこの電車を見かけて―」
急行少女が教えてくれた鉄道研究部の存在意義_d0280748_1828021.jpg
熱心に鉄道車両を追いかけて撮影するような筋金入りの鉄道愛好家とは程遠い知識量でありながらも個人的にこの形式は何か特別な思い入れがあるのか気に入っていたように思えた。しかし、私は将来有る身である彼女が入部届けを通じて受け入れようとする部活の体勢に疑念を抱き、こう回答した。
「あなたのような人が入るような部活ではないですよ。この部活に入っていると他の人間から蔑んだ眼差しで見られることは明白です。もっと社会に役立つような部活に入るべきですよ。」
学園祭の打ち上げに足を運くれるまで入部を前向きに考え、彼女との交渉が成立すれば鉄道研究部設立以来初の女性部員となりえるところまで話は進展していながら私が思いを無に返したため誘致計画は頓挫。私の行動は部長の逆鱗に触れ、身勝手なことにあっさり強制退部処分を受けることになる。
読者によって意見が二分する所だと思われるが、長い年月を経た今でも私の行動は間違っていたとは全く思っていない。入部を断られた彼女の残念そうな眼差しは今でもはっきりと覚えているところだが、鉄道研究部という社会的地位の低い部活に片足を入れることにより彼女の人生を棒に振らずに済んだと言い切れる自信は確かに感じている。

昨今の鉄道ブームにより鉄道趣味にも女性の進出が著しいという記事を見かけるが、実際の所、それは鉄道を利用した旅を楽しむ『旅鉄』に値するジャンルに限定した話題であり、『撮り鉄』である私が有名な撮影ポイントで女性を見かけたことはたったの一度も無い。それもそのはずで、列車を利用した鉄道の旅は老若男女誰しもが楽しめる趣味の領域であるのに対し、列車を被写体の的とした撮影活動は肉体的にも精神的にも苦になる面が多いのが実情だからだ。夏は暑く、冬は寒い中で数時間も待ち続けてシャッターボタンを押し、コンマ数秒の風景をカメラに刻む。この一連の動作は単純に列車に乗って温泉旅行へ出かけたり切符を収集して楽しむものとは比較にならない程、並大抵の精神力では達成できない。
更に言うと、撮り鉄の中でも取り分けて精神力との戦いになるジャンルは俗に『ネタ鉄』と呼ばれる期日を限定して運行される臨時列車の撮影を目的とする撮影部隊だ。中には運行回数が年間を通して1回あるかないかの臨時列車も撮影の対象とする彼らは常に神経を尖らせながら撮影活動を続けている。そのため、出先では神経を尖らせている精神が裏目に出てしまい、沿線住民へ理不尽かつ傲慢なまでの要求をする。それだけでなく、鉄道敷地内で撮影する部隊も数知れず、彼らの行為が元に日本全国各地で列車の運行を支障する事象が発生している。その影響から鉄道愛好家の中でも撮り鉄に注がれる邪な視線は強く、昨今では撮り鉄を題材にしたマスコミが記事の餌として嗅ぎ付け、不必要なまでのバッシングが行われている。
趣味の中でも一般世間からの評価が低い鉄道趣味だが、その中でも取り分けて撮り鉄への評価はかなり低いということは明らかだ。撮り鉄全体の秩序が低下している理屈は前回の論文で発表しているためここでの記述は割愛するが、鉄道撮影者の秩序が下がっている最中、身を徹してまでこの趣味を始めようとする女性はまず考えられない。時折ドラマで鉄道撮影を趣味とする若年の女性という役柄を散見するが、これはオタク社会が生み出した幻想に過ぎない。すなわち、広義で言う鉄道愛好家としては女性の進出が著しいという表現は適切だが、その数は全体の1割にも満たないと言えよう。
あの日、私は鉄道研究部を強制退部させられた。初々しき女性部員が誕生するというチャンスを無駄にしたことに対する報いということは明らかだ。もう一度言うが、あの日の私の行動は間違っているとは思わない。こう言っては語弊があるかもしれないが、純真無垢な彼女が泥沼に嵌る寸前で救出した正義のヒーロー気取りで当時の話をこうして話すことができることを誉れに感じている。

ここまでは私が学生生活の実体験を基に鉄道趣味に対する世間の印象を断腸の思いで執筆してきたが、ここからは視野を広げ、俗世間からオタクよばれるカルチャー系の趣味に対する印象はいかほどのものか論述をさせてもらう。
日本社会の中で『オタク』の定義は確立されていない。オタクの特徴を具体例として挙げると一定のジャンルについては根深い知識を持ち合わせている反面、社交性やそれに伴う広範な知識は欠如している点が代表的だ。近年までオタクという表現そのものが対象者を蔑んだ言い回しとして定着してきた以上、ここ数年経った今でも彼らに対する印象は決して好意的とは言い切れない。その理由は上記具体例でも示した通り、社交性に欠くという事実が依然として存在するためである。この欠点が故、第三者からオタク本人の性格を読み解くことが非常に難しく、人物の性格が見えないということが自然と恐怖心を煽り立ててしまうからである。これは一種の偏見と言えるが、偏見は人間がだれしも持ち合わせる心理であるため偏見主義そのものを否定することはできない。要は多くのオタクは第一印象が悪いため内面が如何ほどであったとしても全て第一印象だけで評価されてしまうのである。オタクの多くが相応の年齢に沿わず独身であるという現実からも社交性を欠いているという事実が受け取れる。学生時代は自分の好きな趣味の世界に時間を投資していたため社交性が築けず。更に、大人になり新社会人という新たなスタートラインを切っても学生時代に身に付けるべき社交性が備わっていないため他者とのコミュニケーションが巨大な壁となって立ちはだかってしまう。その壁は、コミュニケーション能力を何よりも重要視される現代社会で致命傷だ。近年では企業の採用選考でも学術的な筆記試験よりも面接試験に重点を置いている。これは言い換えると企業側は学術的能力よりも採用希望者に社会性(社交性)が備わっているかを見極めたいからである。学生時代にコミュニケーション能力が培われず、更には授業も抜け出しその時間を趣味活動に投じていたため学術的能力も培われていないオタク達は企業側から見れば採用基準に値するどころか底辺に等しい人物でしかない。やがて彼らは、篩に掛けられ次々と落選していくのが実情だ。昨今の社会で問題となっている無就労者、いわゆるニートの中には極めてオタクの多さが抜きん出ていることに目を見張るが、その裏には社会全体がオタクを嫌悪し拒否反応が出ている事実が確かに存在している。
急行少女が教えてくれた鉄道研究部の存在意義_d0280748_18282988.jpg
それでも、一定の能力を持ち合わせるオタクは社会に進出して行く。しかし、彼らは仕事に専念して賃金を得ているという実感が皆無で、日々の社会生活を惰性的感覚で過ごしてしまっている。すなわち、社会人であるからに仕事を習得しようという心構えを強く持つことができていない。私を含めた鉄道愛好家もその類だ。趣味を通じた人物以外の者と話していても背後を電車が通過すると形式が何か気になり無意識のうちに振り返ってしまったり、仕事で車を運転していても通り慣れない道で踏切や線路を見かけると電車が通過しないか淡い期待をしていたりしないだろうか。そうした事象を本稿では以下『禁断症状』と呼ぶことにする。オタクの多くは禁断症状こそが仕事を習得する妨げになっているのではないかと私は推測する。オタクは仕事に対する知識習得よりも自分の趣味を最優先に考えてしまい勝ち。その結果、自分がこなさなければならない仕事を後手に回すため、仕事を習得する機会を自ら失っているのである。月日が経過しても周囲のライバルは次々と仕事に慣れていくのに対しオタクは仕事の習得ができず苦労する。中にはせっかく入社できた会社を辞職し転職するどころか社
会で働く意志を失いニートの道にひた走る事例も稀ではない。
また、鉄道愛好家であれば一度は憧れるであろう鉄道会社への入社。しかし、日本の鉄道会社の多くは鉄道愛好家の採用を忌避する。その理由もやはり鉄道愛好家は仕事と趣味を混同しがちで、覚えるべき知識を習得しようという心構えに欠けるからだと言う。それだけでなく、仕事中に他のことを考えながら執務に当たるという行動は利用客の安全を守るという何よりも優先すべき使命をまっとう出来る保障がなく、引いては安全を脅かす結果を招くことが理由の代名詞と口を揃えて言われる。万が一、1人の社員の怠慢が元凶となり鉄道の安全が脅かされれば会社は忽ち世間の信頼を失墜することは必至。そう。会社が信頼を失うという結果は安全神話を歌う鉄道会社にとって何よりも打撃になるのである。無論、鉄道会社の箱を開いてみると鉄道愛好家も相応に存在するが、知り合いの話では入社後の現場でも鉄道愛好家は上記のように仕事に対する信念が欠けているため敬遠される傾向があるという。

それでは、社会の輪を抜け出しニートという人生の選択をしたニートの生活はどのようなものか。ニートという身分は非常に快楽だ。衣食住全ての生活環境を親や家族が提供してくれる。カネが無くても食っていける生活環境はニート本人に取って快楽この上ないが、本人を除いた家族からすれば単なる穀潰しであることこの上ない。しかし、一度快楽を得てしまった人間を元通り社会復帰させることは容易ではなく、ニート本人の意識改革が第一条件だ。単なる学生時代のイジメからなる引きこもりなど心の傷を負っているだけのニートであれば一定の支援を受け社会に復帰させることはできたとしても、一旦社会生活を経験した上でニートの道を選択したオタクは社会経験で社会を生きる辛さを身に染みて感じた後に無職生活の快楽を味わっていることになる。本人にとって楽園とも言うべき日常から脱却させることは前者のケースよりも難しいと専門家は語る。
急行少女が教えてくれた鉄道研究部の存在意義_d0280748_18284625.jpg
特に、鉄道趣味は一貫して自分だけの世界に打ち込みやすいジャンルで、自分以外の誰かがいなければ成立しないスポーツ系趣味と比べると同じ趣味でも隔たりは確かに存在する。その自分1人だけで楽しめるという一種の長所が仇となり、鉄道を始めとするカルチャー系趣味はニートにより快楽感をもたらす温床となっていると言える。

それではこれまでの点を踏まえ、改めて鉄道研究部の存在意義を見直してみる。社会へ進出するに当たり学力だけでなく、それに伴い精神面も成長させることを目標とする学校教育の各現場。どの学校でも同種の風潮はある中でカルチャー系部活の存在は至って邪道という意見が多数を占めている。学校側は集団生活に溶け込めない生徒の駆け込み寺として存在する部活は生徒の精神面そのものを育成する教育理念に反していることを感じていながらにして部活の存続を認めなければならない。そうした歯痒さを感じている所だろう。
無論、鉄道研究部の存在そのものを否定する声は無くても、部に所属していることでクラスやその他の催事への関心が薄れるため、社会性が培われないことは事実。私は声を上げてでも声明を発表したい。
「鉄道研究部が若者を弱体化させる」
と。

あの日、私が鉄道研究部への入部辞退を進めた女子部員。被差別部活の泥沼に嵌ることなく有意義な学生生活を送った彼女の今を知る者は誰一人としていない――。

<イメージ画像出演者>
秋山竜次、出川哲郎
柄本時生、渋谷飛鳥
滝藤賢一、緋田康人
神木隆之介
# by detthiu | 2013-12-17 18:31 | 各所掲示板への投稿分纏め

鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る

鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る_d0280748_1910797.jpg
「汽車ポッポの写真なんか撮って喜んでんじゃねーよ」
数年前、2ちゃんねる掲示板にこうした話題が立てられたことに見覚えはないだろうか。鉄道趣味に愛着を持っているはずの集団の中には自らが鉄道趣味を持ってしまったことを悲観し、その葛藤を同じ仲間にぶつける愛好家もいるようである。昨今の社会事情から鉄道趣味に対する風当たりは決して優しいものではない。その根幹には愛好家自身が起こす周囲への配慮が足りない行動が無意識のうちに鉄道利用者・関係者に迷惑を掛けていることは周知の通りのはずだ。鉄道趣味と言ってもその奥深さは多岐に渡り、鉄道を撮影することを主体とする者から鉄道関連グッズの収集をする者までジャンルを問わず包括して鉄道愛好家と定義付けられる。

まだインターネットやSNSが日本社会において未発達であった当時、鉄道の運行情報の中で利用客のニーズに応えて運行される臨時列車の情報は、市販されている時刻表と趣味雑誌が主な情報ルートであった。更に、偶発的に運転される工事列車などの情報を得るに至ってはその現場に熟練して通い詰めている愛好家との繋がりがなによりもの必須条件であった。そう。人と人の繋がりがあってこそ鉄道運行情報を交換し、互いに誼を通じさせていた時代の話である。鉄道愛好家に限らず、中堅及び年配者が「昔はいい時代だった」と回想する言葉の裏にはこうした人と人のつながりがあった時代を懐かしんでいるのかもしれない。
鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る_d0280748_1941968.jpg

インターネットが巷に普及し、当時と比較すると確実に時代は進歩した。それは同時に現実世界における人と人の繋がりも薄れさせていった。パソコンひとつで無形のインターネットに接続すれば地球の裏側にいる顔も知らない“誰か”とも通信することは容易になっていったからだ。私自身、インターネットの発達を否定するつもりは毛頭ないのだが、情報過多社会の到来により鉄道趣味に対する新規参入が容易になった。その結果、秩序を熟知しない新規参入組にあたる鉄道愛好家の多くが意図も簡単に情報を仕入れ、各地で一種の迷惑行為を起こすようになっていることは隠すことのできない事実ではないだろうか。
『人のつながり』と『インターネット発達』という2つのキーワードは正に表裏一体。人のつながりを失った愛好家たちは忽ち秩序を失い暴走を始める。先日、ある週刊誌において「鉄ちゃんまた暴走!」という見出しの元、お決まりの内容がニュースとして取り上げられていることが目に留まった。その見出しにおける“暴走”という表現は正に無法地帯と化している現在の鉄道趣味に相応しい語句であるように感じる。

それでは、インターネットが発達する前の時代を生きてきた鉄道愛好家たちは公序良俗に則り、人道的且つ善良な者ばかりであったかと問われると決してそうではないはずだ。国鉄全線から蒸気機関車が引退する直前、伯備線の布原信号所付近に位置する有名撮影地において社会秩序を守らない撮影者が横行。その土地の所有者を激しく憤慨させ、それ以降、地権者側から撮影地を有料化する策を打ち出されるという事象にまで発展した。巷の老若男女がこの時ばかりは血眼を耀かせながら一人の鉄道愛好家に大躍進を遂げた時代。とても今では考えられない事例だが、それだけ蒸気機関車の存在が日本人の心に浸透していたと考えれば頷ける。
『蟹を食べると無口になる』という俗説があるように人間という生物は一つの事柄に集中すると周囲の状況が見えなくなり、適切な判断を下せなくなってしまう。鉄道趣味も例外なくその部類に属し、一例に挙げた伯備線布原信号所にて発生した地権者と愛好家の相互間における擦れ違いも愛好家の周囲が見えなくなった行動が何よりもの原因であることは明白だ。その他、この蒸気機関車全廃を目前に控えたSLブームの時代は鉄道趣味の歴史の中で最も鉄道愛好家が増えたと推測される時代。人が増えるということはそれだけ現場を統一させる統制力が必要となるのだが、長年趣味を楽しんできたベテランだけでは一気に増加した参入者を相手に指揮を取ることができず、全国各地で撮影者の秩序悪化が散見されたとされている。

1976年、国鉄は全線から蒸気機関車を引退させる無煙化に成功させると同時に国民のSLブームの白熱振りはいつしか消え去っていった。それからしばらくの間、鉄道趣味は一種の平穏を取り戻したと言っても過言ではないかもしれない。しかし、手頃な価格で購入できる家電品の誕生によりカメラも例外なく価格競争を経て安価な品物になっていきた昨今、再び鉄道趣味が注目され始めた。書籍やマスコミを通じて鉄道趣味への新規参入が容易であることが歌われると、鉄道愛好家の人数は従来と桁外れに伸び始めている。
更に、問題視されるのは増えている新規参入者の多くは人生経験も豊富でない若年者が大半を占めていることである。近年では学校教育においてもゆとり教育からなる教育体制の見直しがされたため、学校側は生徒を教育に縛り付けることはできず放任主義にならざる負えない場合も少なくない。その規制緩和に甘えた生徒たちは安易に授業を怠け、鉄道趣味活動に時間を投資するケースも珍しくなくなってきている。私もこの趣味を楽しんでいるとしばしば平日の昼間から線路端に立つ中高生らしき学生集団に出会うことも珍しくなくなってきていると感じていた。
かつてならば学校を抜け出して趣味活動をしていると地区の補導員や趣味を共有する周囲の大人達が人生の先輩として彼らを注意し、更生させる手解きをしていた。そのことで社会的にも長幼の序が保たれ、鉄道趣味は社会秩序に則ったごく普通の趣味であった。しかし、教育現場の在り方が変わったことを皮切りに社会常識を知らない大量の若年者が鉄道趣味に参入したことで、鉄道趣味を長年経験してきたベテラン世代だけでは手に終えず、彼らを更生するにあたり指揮が取れない事態に再び陥っていると言える。
鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る_d0280748_1944654.jpg
そして、この流れはかつてのSLブーム時代同様に年配者が参入者に秩序を伝承できないという流れに等しいばかりか、社会常識を知らない参入者が増え続ける一途であるため、鉄道趣味の秩序はSLブーム時代を凌ぐ最悪の結果が待ち構えていることが想定できる。会社側が主催するイベントにおける現場の警備は開催する各鉄道会社だけでは応対できず警察機関の梃入れも通例となってきている。
各方面で個人が経営しているブログやツイッターといった情報発信基地では警察が撮影場所に介入することに意義を唱える風潮が強いが、警察が介入せざる負えないほど鉄道愛好家の秩序が低下していることを直視することが先決ではないだろうかと私は考える。

世間では各教育現場での学力低下が懸念されている所だが、学力以前に人間として必要な常識力に欠けた集団が取分けて目立っていることは拭えない事実。
それでは、鉄道愛好家の多くはなぜ常識力が備わらないまま社会進出を果たしてしまっているかが論点の鍵となることだろう。本項では鉄道愛好家の中でも極めて愚行が注目されている『撮り鉄』に照準を合わせながら論述していくこととする。
線路上を走ってくる鉄道車両を使い慣れたカメラに収め、出来上がった写真を見ながら自己陶酔に浸る。これは撮り鉄最大の至福の時だ。同じ構図、同じ場所でも自分が満足するまで足繁くその場所に通い詰め、結果を残すことができた作品は満足という言葉だけでは表現することが勿体無い程最高の感触を味わうことができるだろう。それこそが撮影者が皆共通して追求する実感であり、ひとつの到達点と言えるのかもしれない。
しかし、それらはどれ程撮影者の中で理解できた実感だとしても一般社会では通用することの無い実感で、その結果、趣味の楽しささえも一般人に理解してもらうことは難しいとも言える。
なぜならば、その写真1枚に辿り着くまでどんな条件下で撮影したとしてもその行動を共にしなければ理解できない達成感である上、それ以前に1本の列車を撮影することを目的に巨額の資金を投資してまで現地に赴く心情は、一般人に理解してもらうに至り相当な苦労が伴う。そればかりか、その行動自体が人間として理解しがたいため愛好家は変人奇人の対象とされてしまうことだろう。
しかし、それだけでは鉄道愛好家そのものに対する風当たりは強くはならないはず。なぜならば、鉄道愛好家を度外視してもカメラによる撮影を趣味にしている者は多く、例えば、このほど世界遺産に登録された富士山の雄姿を撮影するため同じアングルで何度も現地へ足を運ぶ者も多いからである。カメラを持って撮影に赴く。その行動はカメラを趣味とする者であれば誰もが共通する点であり、それらの撮影者が抱く心情と鉄道愛好家(撮り鉄)が抱く心情は同一のものといえるからだ。
しかし、現代社会の撮り鉄の多くは公私とも単独行動が目立ち、仲間と行動することを好まない傾向が強い。無論、一定の撮影者同士の交友はあったと仮定しても互いに撮影する目的や撮影地や被写体が異なると別行動を取るケースが多いと言える。その行動は鉄道趣味活動を続けるとき以外でも散見される。
例えば学校生活。無論、全ての鉄道愛好家全員が同一の行動を取っているとは断言できないことを前置きさせてもらうが、撮り鉄の多くは学校の授業を終えると部活動に所属しない帰宅部であることが多く、束縛から開放されると直ぐに趣味活動に甘んじる傾向がある。そればかりか、中論にも述べたとおり時には学校の授業や催し物も二の次にしながら趣味活動に時間を充てるため、クラスメイトとの交流が非常に希薄になりがちである。その結果、集団を逸脱した学校生活を過ごすこととなり、当人を周囲の生徒は性格をはじめ内面を察することができないため、一定の集団から腫れ物に触れるような扱いをされ孤立してしまうことが多い。
鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る_d0280748_1951380.jpg
現実に私が通っていた高校にもこの兆候と同種の鉄道愛好家が数人存在し、彼らは部活の中でも文化系の鉄道研究部に所属していたが、その部活自体が同種の人間を集約した塊のような素質であったため部活全体が学校生徒全体から敬遠されていた。
中には集団生活に慣れていないためか自分の意見が公の場で通用しないことに腹を立て暴力的手段を用いて解決の糸口を探すものや、周囲と軋轢を生む者も多くおり、それら日常生活態度が複合的要因として重なり合った結果、鉄道愛好家そのものの質が地に落ちていたとも断言できる環境だった。
しかし、広い目で見れば学校生活で孤立していたとしてもその現状をさほど悲観視することはない。学校はあくまでも社会に進出する前の練習段階なわけで、最大の試練は学校を卒業し社会に進出したときだ。社会に出れば一人間の大人としての対応ができると判断され、社会生活における敬語の使い方や有事の際に公序良俗に則った解決方法などを道徳的に考える力は備わっていると見做される。通常の学校生活を過ごしてきた者にとってこれらは何らレベルの高い条件ではないのだが、学生のうちに集団性に慣れることができなかった鉄道愛好家は社会への進出が大きな試練として立ちはだかる。会社に就職すれば学術だけでは解決しない事柄も多く、上司の無理難題な言いつけや会社の運営方針に刃向かうクライアントとの板ばさみなど会社生活において理不尽な点を挙げれば切が無い。そうした日本社会の現場に学校生活で集団性や自立性を身に付けていない者は慣れないだけでなく毎日が息苦しく感じることだろう。更に、物事を我慢するという精神力もなければせっかく入社した会社を離れる以外に選択肢はなく、堕落の道を歩むことになる。現にニートでありながらも趣味活動を続ける鉄道愛好家も珍しくなく、鉄道愛好家への風当たりが強い最中、無職・ニートという条件が更にイメージダウンの拍車を掛けていると言える。

厚生労働省の定義によるニートと断定された若者の数は2001~2005年の約64万人を最高水準として年々減少傾向にあるようだ。近年では労働環境の改善や行政が設ける就労施設の充実化が図られたことによるものとされるが、2010年の段階でも推計60万人のニートが存在し社会問題になっている。
広い目で世間を見るとニートという選択肢を得た若者にはそれ相応の経緯があるにしても、親の金を無駄に蕩尽し就労者が払う税金を無駄食いしているという事実が存在するため、世間の目は厳しい。
鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る_d0280748_1954385.jpg
先日、あるニュース特報で29歳になるニートの男を取材していた。彼は学生生活で取り分け目立つこともなく成績は上中下の中クラス。能力的にも人並みであったというが、中学生半ばに一度イジメからなる引き篭もりを経験し、自宅で勉強する傍ら趣味はプラモデル作りとアニメキャラクターのフィギュア集めの世界へと導かれていった。この2つの趣味も鉄道と共通して自分ひとりで楽しみを味わう趣味である。一人で楽しめる趣味とは非常に好都合だ。自分の好きな時間に趣味活動を始め、自分の中で納得する。すなわち、鉄道もアニメもプラモデルも趣味としては自己完結型であると言える。
こうした趣味は自分だけで楽しみを見出せるという好都合性を持ち合わせる反面、没頭すると世間との関わりを謝絶してしまうと考えられる。例題に取り上げた29歳の男性ニートがもし、趣味のジャンルを野球やサッカーといったスポーツなどに転化していれば年齢相応の充実した社会生活を送れたと私は考えられる。
学生時代に他者との交流を盛んにし、視野を広げながら日々の生活の中で様々な経験を積まなければ社会に適合できずニートになってしまう。学校の勉強を怠け、平日でも骨休みをしたい。それは大いに結構。だが、その時間を鉄道趣味だけに利用するようでは視野が狭い分、社会性がその段階で閉ざされてしまうことになる。私の考えに反論の意を唱えるのならばそれで結構だが、ひとつ言わせて貰う。実際に線路端で写真を撮っていたことが後に訪れる社会生活の中で有効であった実績があるだろうか。恋愛・交友・アルバイトなど有能かつ社会的な時間の費やし方によっては学校の学術では教えられない知識を身に付けることができる。いや、これらは社会に出るにあたり身に付けなければいけない知識の数々だ。
鉄道愛好家と無就労者の相関関係を探る_d0280748_196055.jpg

「汽車ポッポの写真なんか撮って喜んでんじゃねーよ」
これは将来設計をせずに趣味に陶酔する学生撮り鉄へ鳴らされた警鐘なのかもしれない。

<イメージ画像出演者>
鈴木梨央、他
森田直幸、他
野村周平
浅香航大、伊藤かずえ
松坂桃李、黒木華
# by detthiu | 2013-12-02 19:06 | 各所掲示板への投稿分纏め

鉄道系掲示板はなぜ荒れる?

鉄道系掲示板はなぜ荒れる?_d0280748_2371673.jpg
主人公のある少年は幼少期から蝶や蛾を中心とした昆虫標本の製作が趣味であった。時が経つのを忘れるほどその趣味に熱中していたあるとき、少年はコムラサキという希少な蝶の捕獲に成功。それを標本として隣人で同じく昆虫採集を趣味にするエーミールに見せたところ、幾多の非難を浴びせられた挙句に見勝手な値打ちまでされてしまう。それからしばらく経ったある日、少年は不意にエーミールがヤママユガを蛹から羽化させることに成功したという話を聞く。興味を持った少年はエーミールの自宅を訪ねるが留守であった。それでも少年はヤママユガを見たいという自身の欲望を抑えることができず、留守宅に侵入しヤママユガをポケットに詰め込んでしまう。すると、あろうことかヤママユガはポケットの中で潰され死んでしまう。罪悪感と焦りのあまり犯してしまった行動に母は少年に対しエーミールに謝罪しにいくことを諭す。少年は素直に自身の過ちを謝ると、エーミールは憤慨すどころか少年を冷めた目で軽蔑視するだけであった。少年は自分の犯した罪と趣味からなる欲望の葛藤を抑えきれず、今まで製作した昆虫標本全てを処分してしまう。
―これはのドイツの小説家『ヘルマン・ヘッセ』が1931年に発表した短編小説「少年の日の思い出」の内容である。自分の趣味を優先するあまり他人の所有物に手を出し、法の一線を越えて窃盗。更には損壊させてしまったという罪悪感を背負い、取り返しの付かない泥沼に嵌っていく姿を忠実に描いている。

鉄ヲタも自己満足の中で完結させる嗜好であり、自分の撮影結果を他人より優れた作品として生み出したいという欲望が人一倍強い。更に、自分の作品を周囲に認めて欲しいという願望も比例している。その背姿は物語に登場する2人の少年と横綱格だ。こうした自己顕示欲の強さが他人を蹴落としてでも形振り構わず自分は上位に立ちたいという著しく人間性を欠いた思考の温床となっている。周りの選手を敵視して自分が上位に立つという風潮はスポーツの世界でも有り触れた慣習だが、それらはあくまでも相手の選手をライバル視することにより自分に適度のプレッシャーを与え、精神力を鍛えることが趣旨であり、決して相手を蹴落として陥れるという目的は無い。現にスポーツ界で自分と同じフィールドで戦うライバル選手が故障や不慮の事故で命を落としてもその相手を悔やみ、涙を流す。決して「ライバルがいなくなって自分が上位に立てる」と歓喜する者は私の知る限りいないことが何よりの根拠だ。
鉄道系掲示板はなぜ荒れる?_d0280748_22541366.jpg

確かに、実力主義の色が濃い鉄道撮影も一種のスポーツに例えられる。各所で開催される写真コンテストでは自分の力試しとして作品を発表する者も多いと思われるが、その数ある応募のうちから自身が撮影した一枚を選抜されるには無限の努力で自分のセンスを磨かなければ実現しない。だからこそ、同じフリーカメラマンと言うフィールドで切磋琢磨しながら撮影技術を身に付けて成長していくという姿がフリーの写真家として理想の在り方ではないかと私は考えている。写真コンテストは参加するにあたりいくつかの条件が付け加えられている。例えば、撮影者が立ち入り禁止箇所で撮影していないことはもちろん、レンズ使用は何mm~何mmまで。投稿するプリントサイズはどれ程か。作品テーマは何か・・・といった募集するにあたりいくつかの条件が備わっている。決して、下手であるから応募が拒否されるというわけではないにしても、こうした一定の条件が付加されることで、より秀でた作品を選抜することの第一段階とすることが可能である。
現在でもカメラメーカー等が主催となった写真コンテストが存在するが、同様に使用レンズやプリントサイズはどれ程のものかといった主催者側から一定の条件は設けられている。こうした写真コンテストに投稿される作品の数々は撮影者独自のアングルで撮影されているため独創的で創造性に富むため見る者を飽きさせない。また、閲覧者にとってもそのコンテストに入賞した作品を鑑賞することで新たな技法を会得する機会とも考えられる。

しかし、一方ではインターネットが普及し誰もが写真を多くの閲覧者に見せる場が増え始めた。それが、この掲示板のような画像投稿可能な機能が付属した掲示板だ。前者の写真コンテストは数ある写真の中から秀逸である作品を選出し、閲覧者に発表することを目的としているが、画像投稿掲示板はコンテストの趣旨とは異なり、撮影した画像を通じて同じ趣味を持つ仲間達と親睦を図ることを目的としている。そのため、掲示板の特質上誰もがどのような画像であってもインターネットに接続する環境が整っていれば無条件で投稿できてしまう便利なツールだ。
ここで私が“投稿できてしまう”という後向きな表現を用いたのは、便利なツールが故に弊害も及ぼしている事実があるからだ。例えば、写真の撮影技術が疎い人間であったとしてもコンテストと違い数多の審査で選抜される登竜門を経由せずに投稿できる掲示板の機能は、時としてその投稿者より高い撮影技術を持つ閲覧者の目に留まれば蔑視されやすいことがある。
それでも、通常の画像投稿掲示板であれば十人十色な考えを持つフリーカメラマンの集いなので、撮影技術の疎い投稿者に対してはどのようにすれば技術が向上するかという議題を掲げ、利用者が共に手助けしながらアドバイスされるのが通例だ。
鉄道系掲示板はなぜ荒れる?_d0280748_22543151.jpg
しかし、画像掲示板のジャンルが鉄道となれば話は別である。この手の画像掲示板に集う利用者は閲覧者の中に一般人がいたとしても投稿者は鉄ヲタが十中八九を締める。こうした鉄ヲタの特徴は筆頭に述べたとおり自己顕示欲の強さが異常に高く、自分の趣味は高尚であるという一般の精神から掛け離れた特殊なプライドを持っているために自分より撮影技術が疎い撮影者や現場で危険行為をして撮影している投稿者に対してはアドバイスや注意喚起ではなく非情なバッシング行為が盛んに行われる。近年では、そのバッシングの手口も巧妙化を見せ、どこを源に仕入れるのか投稿者の本名や住所を平気でインターネット上に公表する悪質なケースが後を絶たない。
鉄道系掲示板はなぜ荒れる?_d0280748_22551999.jpg
一般社会では特定の人物に私怨を抱いたことを理由に個人情報を公開する行為は反社会行為として法をもとに厳罰に処されるし、撮影者同士のバッシング行為も一般常識で考えると作品の巧拙を指摘し始めてしまえばフリーカメラマンの和が乱れる一方だ。何よりも客観的立場から「同じ趣味を持つ者同士なぜ仲良く活動できないのか?」という疑問の声も出てくることだろう。
実際、その疑問通りなのである。他の趣味を見ても趣味者同士相手の考えを全否定したりすれば趣味仲間の絆が断絶してしまう可能性も高く、趣味を通じて仲間意識を高めるという意思があれば誰もそのような行為に及ぶことは無い。

鉄ヲタの特殊な考えを除外した一般論では、画像を共有し仲間意識を高めることをコンセプトにしている画像掲示板でありながらも、仲間と交流する度に争いを起こすこと自体が非常に低レベルであることが分かってくる。
社会では今、鉄ヲタの存在が白眼視される傾向にあり風当たりは冷たいが、決して鉄道趣味に対して世間が一方的に不寛容になったわけではない。近年、世間のこうした風潮の原因は撮影現場における撮影者のマナーばかりが取り分け浮上している傾向が強いように思われるが、個人的にはそればかりではなく鉄ヲタ自身に社会性が伴っていないことも起因すると考えている。
鉄道話題を専門とした掲示板の投稿者は鉄ヲタだらけであっても閲覧者は鉄ヲタだけとは限定できないのがインターネットという無形ネットワークの特徴。言い換えれば掲示板は社会の窓という表現が適切かもしれない。
こうした社会の接点にあたる場所でレベルの低い争いを頻発させているようでは一般常識を持つ一般人から見た鉄ヲタの印象は悪くなる一方なのである。鉄道系の掲示板が荒れやすいということは投稿者である鉄ヲタの精神レベルがそれだけ低いということをもっと自覚していくべきではないだろうかと私は考える。

<イメージ画像出演者>
須賀健太、他
船越英一郎、菊池麻衣子
忍成修吾、吉井一肇
# by detthiu | 2013-07-12 23:02

鉄道車両への愛称から垣間見る鉄ヲタの精神レベル

鉄道車両への愛称から垣間見る鉄ヲタの精神レベル_d0280748_2256131.jpg
趣味とは本来、人間が仕事をは別に生まれる余暇を利用して楽しむ道楽のことである。世界的に見ても趣味の種類は多数で、スポーツや書道・生け花といったメジャーなジャンルから切手や切符。視野をもっと広げてみると落ち葉や石を集めて鑑賞することを楽しむコレクター系の類など多岐に渡る。
私が高校時代に知り合った友人の1人は珍しい趣味を持っていた。それが、鉄道・・・ではなく“鉄塔”。発電所から高圧電流を各地へ運ぶ電線を運ぶ鉄塔を眺めるのが趣味であった。彼は、その特異した趣味が災いしたのか周囲とは隔離した学校生活を送っていたようだが、鉄塔のことになるやいなや饒舌な長講釈が始まった。
ひょんなことで連絡をとってもいつしか趣味の鉄塔の話が始まり「一般的に電線と言っても―」から始まり、「鉄塔に支えられた電線の経路にも鉄道同様に○○線っていう路線名が付けられていて―」といった専門的かつ奥深すぎる話題を聞く受け手に取ってはちょっとだけ憂鬱であった。
それでも、彼は自分の博学多識を自慢したいのか終わりのない雑学を話していた。その裏にはきっとどこかで自分の趣味や自分の存在を認めて欲しいという心中を持っていたのかもしれない。
鉄道車両への愛称から垣間見る鉄ヲタの精神レベル_d0280748_2256629.jpg
~~
この実例と非常に似ているのが鉄ヲタの性格であると気付いたのは最近の話。見出しに掲げられている鉄ヲタが趣味界独自で常識のように口にする単語の数々は趣味に興味を示さない一般人にとってはまず理解不能である。それでも、一時期は鉄ヲタでなくても精通する単語が一つだけあった。それが『デゴイチ(デコイチ)』。
言わずと知れたD51形蒸気機関車の愛称で、この形式は国産の蒸気機関車の中における製造数は1110機という最多数を誇った。その足跡こそが日本国民にとって最もポピュラーな形式となるきっかけであり、比例してデゴイチという愛称が鉄ヲタ以外の日本人にとって蒸気機関車の代名詞とも呼べるものになっていったと思われる。
しかし、現在では直流区間であれほどの勢力を誇り、ブルートレインの先頭に立っていたEF65を「ロクゴ」と称して一般人に伝えても意味を成しえない。そう。「ロクゴ」という愛称は鉄道趣味界独自の愛称に留まっている。それは、全国的に活躍した形式であっても日本国民にとってポピュラーな形式とは成り得なかったからである。そこで一般人から「その“ロクゴ”って何ですか?」と質問されるやいなや鉄ヲタの長講釈が始まる。
こうした長講釈で自分の博識を相手に見せつけ、自分の凄さを主張したいという性格は筆頭に例として挙げた同級生の鉄塔マニアと共通するのではないだろうか?周囲に自分という存在を認めて欲しいがために自分の博識さを披露し、共感を求める。そうしたケースの人間は言ってしまえば、日常生活において周囲との人間関係が希薄であると考えられる。人間誰かと繋がっていたいという集団への帰属意識は人類であれば誰しもが持つ本能で、鉄ヲタが列記とした人間である限り例外ではない。『友達が欲しい』『彼女が欲しい』『結婚したい』という切実な願望があったとしても社会の輪に入るにあたり博識自慢だけが自分の存在をアピールするツールであるため周囲との人間関係に空回りが生じているのである。
鉄道車両への愛称から垣間見る鉄ヲタの精神レベル_d0280748_2256578.jpg
~~
昨今の話題として人間関係の希薄さが挙げられることもしばしば。価値観の多様化や選択性の増大によって人間は表現の自由というものを手にした。しかし、その自由さが故に人間関係も多様化・複雑化の一途にある。携帯電話やインターネットといった無形の情報システムの発達により遠方の友人と連絡を取ることは容易になったが、その裏では人vs人という人間本来の対話方式で直接的な親交を深めるという意思を剥奪させているとも言える。
携帯電話は相手の姿形を見ることができない。中にはテレビ電話なる相手の顔が画面に表示される種類もあるが、こうした対話方式では自分の意思を表現する相手は所詮機械であり、その機械を通して相手に意思を伝えるのが一般的だ。更に、インターネットでは自分の意思を特定された人間。もしくは限定された集団にのみ発信することもできるが、無限の利用者に対して発信することも可能だ。しかも、その発信源を隠して第三者に自分の意思や考えを伝えることはできる。その利便性を利用したいわゆる匿名の悪意とも取られるのが掲示板やチャットといった公共性の高い無形の交流の場において見境なく相手を誹謗中傷する『荒らし』行為。特に鉄道系の掲示板ではこうした荒らし行為や、些細な発言から交流の場が荒れる様子が多く散見される。
こうした鉄道系の掲示板が荒れやすい原因は唯ひとつである。鉄ヲタ一人が個人の主張をしたとしよう。それに反論する第三者も鉄ヲタであるため、現実社会で人間vs人間の対話術を学ばないままインターネットを利用している可能性が高い。そのため、物事の表現を上手く言い表すことができず感情的になることが多く、刺々しい口調になるのである。“とにかく自分の話を聞いて欲しい”という一心がありながら相手の反対意見を一方的に否定するために起こる事象だ。また、こうした言葉を浴びせられるにあたり社会的に大人でレベルの高い反論ができればそこで場の荒れは収束するが、鉄ヲタの場合は個人の主張が一般人以上に強いため売り言葉に買い言葉状態となっていくのだ。こうした状況を有形化すると討論番組で研究者や政治家が司会者に耳を貸さず主張し合い、やがては言い合いになっていく光景に等しい。が、しかし、鉄ヲタの場合は討論する内容が非常に稚拙であるのだ。
ある掲示板では昨今社会問題になりつつある鉄道趣味者のマナー。これについてよく討論される。見かけは自発的な啓蒙活動により鉄道趣味界のレベルアップに努めているように見えるが、その内容を咀嚼していくと非常に薄い。
「撮影地でのゴミは持ち帰るべきである」
「後から来た撮影者は前にいた撮影者に迷惑を掛けぬよう心掛ける」
「夜間・早朝時は地域住民の騒音とならないよう心掛ける」
「罵声を浴びせない」
「立入禁止場所には入らない」
など。全て当たり前決まり文句が並ぶ。それを討議してどうするのかと私は問いたいくらいだ。むしろ、討議として成立するのか。これら当たり前の項目を実践できない鉄ヲタがいることから社会から非好意的な批判が寄せられているという肝心要の論点に達していない。
結局のところ、こうした場でも『自分はマナーを守って撮影していまーす。偉いだろう?』といったニュアンスの強い主張ばかりだ。
鉄道車両への愛称から垣間見る鉄ヲタの精神レベル_d0280748_22564877.jpg
世間に鉄ヲタのマナー低下が大きく取り上げられ影響を与えた関西本線「あすか事件」が発生したのが2010年2月14日のこと。これからもう3年以上経っているにも関らず、鉄道趣味界に依然として厳しい注目が集まるのは鉄ヲタ一人ひとりがマナー向上という意識がけが足りず、精神面でも進歩していないことに他ならない。
~~
「ニーナ」「ゲッパ」「パイパイ」・・・こうした愛称について私は辟易感はなんら持つ程ではない。それは、単にこうした単語は鉄道趣味界の中における一種の業界用語として割り切り、それ以外の場所で口にすることはないからである。そうした知識を興味の無い人間に対して披露することで共感は得られないことは知っているし、相手に辟易されるくらいならば言う必要のない知識だと自負しているからである。
それでも、一人の鉄ヲタとして鉄道趣味の愉しさを少しでも共感して欲しいと切に思うかもしれないが、そこで一方的な主張だけでなく別の方法で相手の興味を呼び起こす手段を考える。これがデキる大人への第一歩ではないだろうかと私は考えている。
これからの発展に期待したい。

<イメージ画像出演者>
神木隆之介
新垣結衣、綾野剛
要潤
# by detthiu | 2013-06-24 22:57 | 各所掲示板への投稿分纏め